「AIは人間を代替すべきでない」という提言
虎嗅網に掲載された論考が、AIの用途を人間の代わりに作業させるのではなく、人間にはできないことややりたくないことに限定すべきだと提唱。主流の「代替型AI」を批判し、新薬開発など付加価値の創造を説く。
2026年6月、虎嗅網に掲載された一編の論考が、AI(人工知能)の応用方向性について根源的な問いを投げかけている。著者の孫立平氏は、現在のAI業界が突き進む「人間の労働力代替」という方向性を批判し、AIはむしろ「人間にはできないこと」と「人間がやりたくないこと」に特化すべきだと主張する。
この論考の核心は、AIの価値を単なる効率化やコスト削減に矮小化するなという警鐘にある。記事では、ある企業がAI導入の目的を「効率向上と人員削減の準備」と答えた事例が紹介されている。この回答に違和感を覚えた技術者が契約を断ったというエピソードは、現在のAI産業が抱える倫理的ジレンマを象徴している。
三つの発展段階とその転換点
孫氏はAIの応用を三つの段階に整理する。第一段階はChatGPTに代表されるチャットやテキスト生成、翻訳といった対話型の応用だ。第二段階は情報収集と処理で、検索やコンテンツ分析が該当する。これらの段階では人間の介入が毎回必要だった。
第三段階はエージェントの登場である。AIが自律的にタスクを計画し、手順を分解し、ツールを呼び出し、長期的な目標を記憶する。複数のエージェントが協力して作業することも可能になった。しかし、この第三段階で顕著になったのが、自動化による人間の代替である。
カスタマーサービス、初級翻訳、基礎的な文案作成、データ入力、一部の法律文書作成など、多くの職種で人間がAIに置き換えられつつある。これは確かにコスト削減と効率化に寄与するが、失業問題は深刻化している。
「平庸な自動化」がもたらすリスク
ノーベル経済学賞受賞者のDaron Acemoglu氏は、この状況を「平庸な自動化(So-So Automation)」と表現する。企業が短期的なコスト削減のために未成熟なAIで人間を代替する傾向を指す言葉だ。これにより失業が発生するだけでなく、サービス品質の低下によって社会全体の効率が損なわれる。
Acemoglu氏が特に懸念するのは、テクノロジー企業が「代替型AI」に専念し、人間を支援し協働するAIの開発を軽視した場合のシナリオだ。GDPは見かけ上増加しても、実際の消費が崩壊する可能性があるという。
AIがこの方向に進んだ背景には、収益構造の問題がある。Anthropicは現在30万の企業顧客を持ち、年間収益は約70~90億ドルで、その80%が企業からのものだ。Claude Code製品の年間収益はすでに4億ドルに達している。OpenAIもB2B事業が急成長している。企業側の最も直接的なニーズはコスト削減と効率化であり、AI大手はこれに合わせて人間代替を宣伝する。本質的には巧妙なマーケティング戦略だと指摘する声もある。
付加価値を生み出す新たな方向性
孫氏は、シリコンバレーで最も賢い資金の一部がすでに方向転換を始めていると指摘する。投資対象は生物学研究所だ。多くの投資家は、AIがインターネットではなく、まず医療・製薬業界を変えると賭けている。
新薬開発は世界で最も費用のかかる仕事の一つだ。平均10年以上、10億ドル以上の費用がかかり、多くのプロジェクトは最終的に失敗する。Google DeepMindのAlphaFoldは、数分でタンパク質構造を予測できる。現在までに2億以上のタンパク質構造を予測しており、この分野こそAIの真骨頂だと孫氏は評価する。
AI創薬は、たとえ開発期間を20%短縮するだけでも、多くのインターネット製品以上の価値を生み出す。生命や健康に直結する価値は、ユーザーの注意を奪い合う広告収入モデルをはるかに超える。
正しい発展方向の四つの特徴
孫氏は論考で、AI応用の望ましい方向性に四つの特徴を挙げている。
第一に、目標は単なる効率向上ではなく、人間には絶対にできないことを行わせることだ。数十億の分子組み合わせを分析して新薬を探したり、2億以上のタンパク質構造を予測したりすることは、人間が一生かけても達成できない。
第二に、人間を代替するのではなく、人間に力を与えることだ。AlphaFoldは生物学者を一人も代替せず、むしろ煩雑な構造解析から解放し、より深い生物学的問題を考えさせることに集中させた。
第三に、付加価値を創造し、既存のパイを分配しないことだ。新薬の開発に成功しても既存の従事者は代替されず、これまで治療不可能だった患者を治癒させる。これはパイを大きくすることで、全人類の福祉を向上させる。
第四に、AI技術が「ビット世界」から「アトム世界」に入ることだ。Peter Thielの分類によれば、コンピュータやインターネットはビット世界に属し、交通、エネルギー、バイオ医薬などの実体領域はアトム世界に属する。AIが医療創薬に進出することは、二つの領域を結びつける画期的な突破だ。スマートロボットを含むこのような方向こそがAIの真の出路であり、単に人間を代替するだけの応用は取るに足らないものだという。
現実の壁と模索
ただし、この論考が示す理想と現実の間には大きな隔たりがある。AIによる人間代替が進む理由は単に企業の怠慢だけではない。B2B市場のほうが収益化が容易であり、短期的なROIを求められる企業にとって、代替型AIは最も確実な投資対象となる。
一方で、AI創薬のような分野は開発期間が長く、成功確率も低い。リスクを取れるベンチャーキャピタルや一部の大手テクノロジー企業以外には参入が難しい領域だ。それでも、シリコンバレーの資金が生物学研究所に流れ込んでいる事実は、長期的な視点に立った投資判断が始まっていることを示している。
編集部の見解
短期的には、既存のB2Bモデルによる「代替型AI」の勢いは当面続くと見られる。企業のコスト削減圧力は依然として強く、AI大手の収益構造が急に変わることはない。しかし、Acemoglu氏が指摘する「平庸な自動化」による社会効率の低下や消費の崩壊リスクは、中期的に企業の意思決定に影響を与える可能性がある。特に規制当局がこの問題に着目した場合、企業のAI導入方針に変化が生じるだろう。
長期的な視点では、孫氏が提唱する「人間にはできないこと」へのAI応用こそが、持続可能な発展の鍵を握ると編集部は考える。AlphaFoldのような成功事例は、AIが真に創造的な価値を生み出す可能性を示している。重要なのは、AIが「効率の道具」から「発見の道具」へとパラダイムシフトを起こせるかどうかだ。医療やエネルギー、素材開発といった実体領域でのAI応用が進めば、産業構造そのものを変革する力を持つ。ただし、この転換には長期的な投資と、短期的な利益を追求する資本の論理を超えた判断が必要となる。
ここで一つの問いが浮かぶ。企業は株主価値の最大化という制約の中で、本当に長期的な社会価値を優先したAI投資を行えるのだろうか。また、規制やインセンティブの設計によって、代替型から創造型へのシフトを促進することは可能だろうか。AIの進化が加速する今、技術の応用方向を決めるのは技術者や経営者だけでなく、社会全体の選択であると言えそうだ。
参考
- 虎嗅網「AIがやるべきは人に代わって仕事をすることではなく、人間のできないことや人間がやりたくないことをすること」 — 2026-06-10公開
よくある質問
- 「平庸な自動化(So-So Automation)」とは具体的にどのような状態を指すのか
- 企業が短期的なコスト削減のために未成熟なAI技術で人間を代替する現象を指す。これにより、失業が増加するだけでなく、AIによるサービス品質の低下が社会全体の効率を損なうという悪循環が生じる。ノーベル経済学賞受賞者のDaron Acemoglu氏が提唱した概念で、GDPが増加しても実質的な消費が崩壊するリスクを伴うとされる。
- AI創薬は従来の新薬開発と比較してどのような優位性があるのか
- 従来の新薬開発は平均10年以上、10億ドル以上の費用と多くの失敗プロジェクトを伴う。AIは数十億の分子組み合わせを短時間で分析でき、AlphaFoldのような技術は数分でタンパク質構造を予測する。開発期間を20%短縮するだけでも、多くのインターネット製品以上の価値を生み出す可能性がある。
- シリコンバレーの投資資金は具体的にどの分野に流れているのか
- シリコンバレーの最も賢い資金の一部は、AI研究所ではなく生物学研究所に流れ始めている。多くの投資家はAIがインターネットではなく、まず医療・製薬業界を変えると予想している。AI創薬やタンパク質構造解析など、実体領域(アトム世界)での応用に注目が集まっている。
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